渋沢栄一 深谷が生んだ日本近代資本主義の最高指導者


「人その友の為に己の命を損なう 此より大なる愛はなし」


(ヨハネ伝第15章第12節)

※この言葉は1967年(昭和42年)、北海道の瀬棚町に建設された顕彰碑のブロンズ像の背後に吟子の座右銘として刻まれています。



誕生から青春期へ 〜女医への道への決意〜

 荻野吟子は1851年(嘉永4)3月3日に武蔵国播羅郡俵瀬村(現在の埼玉県熊谷市妻沼)の名主、荻野綾三郎の五女(幼名ぎん)として生まれました。幼少から寺子屋・行余書院両宜塾で漢学を修め、その才媛ぶりが称賛されました。
時代は幕末の動乱期で、吟子10歳のとき、江戸城桜田門外で大老井伊直弼が 暗殺されるなど大きな時代の変動の真っ只中に成長してきたのです。
 18歳のとき、隣村の名主に嫁ぐも、まもなく体調を崩し、それとともに性病を患ってしまい、2年後に離婚することになりました。この時、性病治療のために男性の医師に診療を受けた時の羞恥と屈辱感で深く心が傷つき、女医を目指す決意をするのでした。


男尊女卑故の中での苦学 〜日本最初の女医の誕生〜

 病が完治した吟子は井上塾に入門することになります。その類い希なる学才はたちまち光を放ち、東京の国学者達の間でも評判となり、その名を知らしめたのでした。
その後、東京師範学校に入学。さらに医学校・好寿院に入学して医学を学びます。当時は男尊女卑の偏見がまだまだ根強かったのですが吟子はそれにもめげず、大勢の男子学生を凌ぎ抜群の成績で卒業したのでした。
早速、開業試験願書を何度も提出するのですが当時の時勢も相まって、なかなか受け入れてはもらえず、1885年(明治18)にようやく念願であった開業医の資格を取得することができたのでした。このとき吟子、35歳、日本最初の女医の誕生です。


運命の出会い 〜キリストと之善〜

 1885年(明治18年)5月、吟子は東京の本郷湯島に『産婦人科・荻野医院』を開業します。初の女性医師による産婦人科とあって委員は大変繁盛し、弟子や有名人の知己も多くかったといわれています。吟子の最も華やいだ時代でした。
 1886年(明治19年)医院を下谷黒門町に移転。その頃、吟子は本郷教会にて海老名弾正からキリスト教の洗礼を受け、キリスト教会の東京婦人矯風会風俗部長となって婦人覚醒運動、婦人参政権運動、禁酒・禁煙運動を開始するとともに『婦人衛生会』を設立し、機関誌を創刊するまでになっていったのでした。
 そんな中、吟子は13歳年下の伝道者・志方之善と運命的な出会いをします。ふたりはキリスト教の理想を語り合って意気投合し、1890年(明治23年)、周囲の反対を押し切って結婚します。吟子40歳、之善26歳のことでした。


北海道への入植 〜理想郷・・・〜

 1891年(明治24年)之善は理想郷建設を目指して北海道の利別原野に入植し、その地をインマヌエル(現今金町神丘)と命名しました。吟子も3年遅れた1894年(明治27年)に渡道。開拓に困難を極める之善を助けるのでした。
 1897年に瀬棚で婦人科・小児科『荻野医院』を開業。厳しい冬に苦労しながら往診地域は遠く瀬棚全郡に及んだのでした。
その一方で『淑徳婦人会』を結成し、みずから会長となって活動の先頭に立ちました。残念ながら詳細な活動記録は残っていませんが、女性たちに包帯の巻き方を教えたり、東北地方の不作に義援金を募集するなどの福祉活動をおこない、瀬棚日曜学校も創設しました。その後、札幌に出て開業するのですが、病に倒れ、再び瀬棚に戻ることを余儀なくされたのです。
 1905年(明治38年)、浦河教会の牧師となっていた之善が逝去。3年後、吟子は老いた体では極寒の地での診療は無理と悟り瀬棚を去り、東京で再び開業するのです。
1912年(明治45年)、志方籍をはなれ荻野家に復籍、分家し、一家を創立するするのですが、翌1913年(大正2年)に肋膜炎を発病しその激動の生涯に幕を閉じるのでした。





荻野吟子女史年譜

1851年

嘉永4年

3月、武蔵国幡羅郡俵瀬村(現在妻沼町俵瀬)に父綾三郎、母嘉与の5女ぎんとして生まれる。

1863年

文久3年

葛和田村(現妻沼町)大龍寺の寺子屋「行余書院」に入門し、北条察源に師事する。

1867年

慶応3年

両宜塾(寺門静軒の開設)を継承した松本万年に師事し、その娘荻江を知る。

1868年

慶応4年

上川上村(現熊谷市)名主、稲村貫一郎と結婚(18歳)

1870年

明治3年

病気で協議離婚。順天堂医院に入院。女医を志す。

1873年

明治6年

父綾三郎死去の後、晴湖の紹介で国学者井上頼圀に入門。

1874年

明治7年

内藤満寿子の招きにより甲府で内藤塾の助教となる。

1875年

明治8年

東京女子師範学校に入学。吟子と署名。
12年7月同校を卒業。(25歳)

1879年

明治12年

軍医監石黒忠悳の尽力により私立医学校好寿院に入学。

1882年

明治15年

同校を卒業。(32歳) 内務省長与衛生局長に医術開業試験の女子受験許可を陳情。

1884年

明治17年

医術開業試験を許可され、9月前期試験にただ一人合格。

1885年

明治18年

3月、後期試験にも合格し、公許女医登録第1号となる。
4月、母嘉与死亡。
5月、本郷湯島に医院開業。(35歳)

1886年

明治19年

下谷黒門町に移転。
本郷教会にて海老名弾正から洗礼、キリスト教婦人矯風会に参加し、風俗部長に。

1890年

明治23年

10月、議会の婦人傍聴禁止撤回運動に参加し成功する。
11月、熊本士族志方之善と結婚する。(40歳)

1891年

明治24年

志方、キリスト教徒による理想郷建設をめざし北海道に渡る。

1896年

明治29年

吟子渡道し、インマヌエル(現今金町)にて夫の伝道に協力。

1897年

明治30年

瀬棚村会津町に医院を開業。淑徳婦人会を結成し会長に。

1903年

明治36年

9月、志方、同志社大学に再入学。

1905年

明治38年

9月、之善瀬棚で病死。

1908年

明治41年

北海道を引き揚げ、東京本所区新小梅町に医院を開業する。

1912年

明治45年

志方籍をはなれ荻野家に復籍、分家し、一家を創立する。

1913年

大正2年

6月23日永眠(63歳)。本郷教会堂にて葬儀。東京雑司谷霊園に眠る。

(妻沼町教育委員会資料より抜粋)



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