渋沢栄一 深谷が生んだ日本近代資本主義の最高指導者

深谷が生んだ『日本近代資本主義の最高指導者』渋沢栄一翁。
明治維新後、急激な近代化を迎えた日本を、経済という舞台で支えた人物です。
公利・公益の為にと『道徳経済合一説』を唱え、日本で初めての株式会社を創設。
第一国立銀行(旧第一勧業銀行、現みずほ銀行の前身)の創立者。
栄一翁が、生涯に関わった設立会社は、ゆうに500を超え、600以上の社会公共事業に関わると共に、国際親善にも大きく貢献しました。
孔子の教え『論語』の理念を生涯貫き、清廉潔白な経済人として、多くの人々の尊敬を集めた渋沢栄一翁。今回は、その軌跡と功績をたどってみましょう。



激動の時代の青春期 〜幕末から明治へと駆け抜ける!〜

 栄一翁は、天保11年(1840年)、現在の深谷市血洗島に、大農家の長男として生まれた。家は農業養蚕の他に『藍玉』の製造も行っておりました。この『藍玉』は『武州紺』と呼ばれ衣類などを鮮やかな紺色に染め上げることのできる染料として人気も高く、深谷もその生産地でした。
 14歳の頃、父のかわりに祖父と共によく藍の葉の仕入れに出掛けたのですが、14とは思えぬ程の知識と話術により上質な葉を仕入れてきていたそうです。
 17歳の頃、幕府御用達金を差し出すよう領主、阿部摂津守(あべせっつのかみ)に申しつかり、代官所に出頭した折、役人の傲慢な態度に出くわします。しかし栄一はそんな役人にも正論で対抗しました。この頃の憤りが後に反体制意識へとつながり『倒幕』への思いになっていったのでした。
 24歳の頃、従兄弟である尾高惇忠や、その弟の尾高長七郎らと共に『尊皇攘夷論(そんのうじょういろん)』を論じあっていました。幕府のやり方では真の尊皇攘夷は敢行できないと考え、遂に高崎城乗っ取りを画策し倒幕への一歩を踏み出そうとしました。しかし、激論に次ぐ激論の末、「時期早し」との結論に至り、この計画は中止となったのです。この高崎城乗っ取り計画中止が栄一の生涯のターニングポイントになるのでした。
 その後、情勢を探るために京都に登った栄一は、25歳の頃かねてより懇意のあった一橋家の用人、平岡円四郎の推薦もあって、一橋慶喜(後の十五代将軍、徳川慶喜)に仕官する事になった。
一橋家に仕官してからの栄一はみるみるうちに頭角をあらわしたそうです。その頃には薩摩藩の大物、西郷隆盛と鍋をつつきながら語り合ったり、かの新選組局長近藤勇並びに副長土方歳三らとも接触していたとも言われています。


 慶応3年(1867年)慶喜の名代、徳川昭武に随行して渡欧。栄一28歳の頃でした。ナポレオン3世が開いたフランス・パリ世界大博覧会へ招待されたのです。
約一年滞在する中で、ヨーロッパの進んだ思想や文化・社会などを目のあたりにし、大きな影響を受けたのでした。

 明治元年(1868年)11月に帰国した後、大隈重信の説得により、明治新政府の大蔵省に仕えた。しかし、大久保利通らとの財政運営面での意見が合わず、辞職。以後は、一般社会で実業界の最高指導者として活躍。各種産業の育成と、多くの近代企業に関わり、救護法の制定にも尽力した。ほかにも、東京商法講習所(後の一橋大学)の経営や、日本女子大学校(後の日本女子大学)の設立など、実業教育にも力を注いだのでした。


慈善を慈善として行うのは真の慈善に非ず

 栄一翁〔雅号:青淵(セイエン)〕は、孔子を尊敬し、『論語』の教えを生涯貫いた。漢学を学んでいた父の影響を受け、6歳の頃より、『論語』の読み方を教えられ、その後従兄である尾高惇忠に本格的に『論語』を学んだのでした。

 『忠恕のこころ:まごころとおもいやり』は、栄一翁生涯を通じての基本理念である。『義・利』が一つでなくてはならない。私利・私益に走らず公益を優先にとの考えに立ち、これが、後の『道徳経済合一説』による日本経済の発展に繋がっていくわけである。『論語』の精神といわれているこの言葉は、孔子の門人である曽子が、「孔子の生きた道は、忠恕で貫かれている」と称した言葉でもある。

 栄一翁は晩年、国際親善に力を注いだ。特に、日米ならびに日中間に相当な神経を使っていた。

 昭和2年、ニューヨークの友人シドニー・ギューリック博士より、ギクシャクする日米関係のためにと、人形による国際交流を図りたいとの依頼がきた。栄一翁は、すぐに『日本国際児童親善会』を組織し、『青い目の人形』を受け入れたのである。アメリカ人形は、全国各地の国民学校へ贈られ、後に日本側から返礼として日本人形が贈られた。

 また、昭和6年には、中華民国水災同情会会長として義援金を募るなど、世界の著名人との親交も図り、その年の11月11日に、天寿をまっとうし、92歳で往生された。苦しくも、満州事変そして、10年後の日米開戦と、栄一翁の生前の心配事が戦争という最大の悲劇となってしまったのである。

 一民間人として、子爵までに登りつめた栄一翁であるが、郷里に戻った折には、「ぜひ、”にぼうと“が食べたい」と言って、生家『中の家』にて、温かく迎えてくれた地元の人々に”にぼうと“をふるまったという。地元の人々を思いやるこころ、ここにも栄一翁のまごころとおもいやりがあった。

 毎年、11月11日栄一翁の命日には、栄一翁や栄一翁の業績を偲ぶため、渋沢栄一記念館をはじめ多くの会場で”にぼうと会“が開催されている。






渋沢栄一ロードマップ

栄一翁が、尾高惇忠の家に論語を習いに通った道は、いつしか「論語の道」と呼ばれるようになりました。
この「論語の道」周辺には、栄一翁にゆかりののある史跡が数多く残されており、総称して「論語の里」と呼ばれています。


1

渋沢栄一翁生家「中の家」

2

青淵由来の碑

3

諏訪神社

4

薬師堂(諏訪堂)

5

青淵記念館(八基公民館)

6

渋沢栄一記念館

7

鹿島神社

8

尾高惇忠生家

9

誠之堂

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清風亭

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日本煉瓦史料館

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※地図上の番号をクリックすると写真と詳細が見られます。




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